今月23日は、慰霊の日。全国で、沖縄だけが休みになる日。
内地の小学校に上がって、日本の手帳やカレンダーでは、広島や長崎の原爆の日が記されていても、沖縄はないことに気づいて少し悲しかった記憶がある。
高円寺の花屋さんで、サービスにと一輪のひめゆりをいただいた。
沖縄戦における少女たちの記憶が、いつしか花のイメージと結びついて語られるようになった、ひめゆり。
その花をいただいて初めて、ひめゆりが沖縄に自生していないことを知る。ひめゆりが、うつむくように咲くことも知らなかった。
3月に訪れた、沖縄・ひめゆり平和祈念資料館の中庭。ただただ美しかった。その静けさのなかで、いくつかの残酷な証言を読んだ。
屋嘉捕虜収容所で、朝鮮人の「慰安婦」とみられる女性たちと一緒にいたひめゆり学徒の記録。
ひめゆり平和祈念資料館資料委員会『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック(展示・証言)』財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会、2004年、p.126.
「9月2日に捕虜になりました。〔中略〕親戚が全部死んで沖縄には誰もいないので、内地に行きたくて軍属だと言ったら、内地に送るだろうと思って、沖縄人でない真似をして、屋嘉収容所に朝鮮の女の人2、3人と一緒にいたんです。兵隊の収容所の真ん中に女だけのテントがあったんですよ」
少女が生き延びるために、朝鮮人や“従軍”慰安婦と同じカテゴリーで括られることもいとわず、自分の根を切らざるを得なかったことがうかがえる。出自や身分は、自己申告ひとつで揺らぎうるものだった。
嘉手納部落で、朝鮮の「慰安婦」たちを「朝鮮ピー」と、子どもたちが嘲るように呼んでいた記録が、県立農林の資料にも残っていた。