シンリーさんのポスト。
深いなと感じました😌
学校教育には、『才能を伸ばす役割』
だけではなく、『社会で共通に生きるための土台を作る役割』もあります。
だから、「学校は才能を潰している」
も一部事実かもしれないし、
「学校があったから社会が回っている」も一部事実なのかもしれません🍀
AIによって個別最適化が進む未来だからこそ、逆に人とぶつかる事や思い通りにならない経験の価値も大きくなるのかなと感じました🤔
皆さんは、
『才能を伸ばす教育』と
『社会に適応する教育』
どちらを今の学校は優先していると
思いますか?🐧💭
小学生のカリキュラムは才能を潰しているのか
子どもは「教えられて学ぶ」のではない。
本来は、
「なんで?」
↓
「分かった!」
この予測エラーの解消を繰り返しながら、自分の中の世界モデルを更新している。
脳が最も駆動するのは、まさにこの瞬間だ。
ところが一律の学習カリキュラムは、そのタイミングを考慮しない。
すでに理解している子には退屈を与え、まだ腑に落ちていない子には処理しきれない課題を与える。
結果として、全員の学習速度を「平均値」というひとつの規格に合わせることになる。
もちろん、この学校教育の「規格化」にも冷徹な合理性はある。
最低限の読み書き計算、社会で協力して生きるための共通言語、文化の継承。
労働市場における「交換可能性」を担保し、社会の地盤沈下を防ぐ共通基盤(プラットフォーム)としては、これ以上なく優秀なシステムだ。
ただ、その仕組みが、一部の子どもの爆発的な学習速度を抑えているのも事実だ。
もしAIによって、完全な個別最適化が実現したらどうなるだろう。
「問い」と「答え」のギャップが常に最適な難易度で差し出され、伸びる子は今までの常識を超える速度で世界モデルを更新し続ける。
しかし、最適化された環境は別のリスクを孕む。
あらかじめ計算された「心地よいエラー」ばかりを通過する学習は、思い通りにいかない他者や、理不尽な現実との衝突によって得られる「手戻りの大きな挫折(最大の予測エラー)」を排除してしまうかもしれない。
同時に、格差の構造も変わる。
デバイスの有無という経済格差ではない。
AIを自らの問いの拡張に使える「内発的動機」を持つ子と、AIによって娯楽消費の時間を最適化される子の、「動機とリテラシーの格差」が今以上に拡大する。
教育とは、つねに二つの引力の間で揺れ続けるシステムだ。
「個人の可能性を最大化し、突出させること」と、
「共通の規格を与え、社会全体を安定させること」。
AIという超効率的な個人最適化ツールを手に入れたとき、私たちは、社会を繋ぎ止めるための「不効率な摩擦」をどこに設計すればいいのだろうか。