「パヒャッ。けほっ、来てくれたんだね、せんせー」
ノゾミの余命は半年を切った。
空気の綺麗な湖畔だった。D.U.の病院ではなく、私が向かうは片田舎。
病に侵され、小さな診療所で横たわる少女……それこそが、辿る未来を物語る。
「散歩にいこうよ、動けるうちにさ」
彼女は死ぬのだ。
体を締め付けない緩い服装、前でひとつ纏めにした髪型。肌は既に血色を喪っており、絞り出す声だって掠れるばかり。
かつての面影を殆ど失くして、それでも少女は笑ってくれる。
「……今日は、ちょうしがいいの。"今のうち"に、外の景色を見たいなぁ」
こんな大人は、どう答えていいか分からないのに。
杖に頼って立つノゾミは、私の手を取って歩いてくれる。怖かった。その指先の細さが、伝わってくる体温の冷たさが。
透き通った早朝。眩い朝陽が浮き彫りにする、痩せ細ってしまった体躯が──。
「──けほっ。ううん、心配しないでよ」
次の瞬間、消え失せてしまいそうな彼女が。
不安と恐怖を塗り潰すように、私もまた笑ってみせる。彼女が倒れてから一年。私たちの一日は、いつだってそうして始まる。
◇
"誰か"がいるのだ。
百年に一度、十万人に一人──この世界のどこかには、"ソレ"に当たる誰かがいる。
確率の問題だろう。大抵の場合において、そんな"誰か"は目に見えないが……。
「……ノゾミ?」
身近な人に降り掛かったとして、何らおかしくはない。
シャーレ当番の夜。ぷつりと倒れたノゾミを背負い、すぐさま駆け込んだ病院。明くる日に聞かされた言葉に、私は『運命』なんて二文字を知ることになる。
『もって……もって二年でしょうか。有効な治療法は発見されておらず、一年を目途に緩和ケアを……』
"誰か"がいるのだ。
左右をよく見て渡った青信号、暴走トラックに撥ねられる"誰か"が──追い詰められた通り魔、歩いていただけで刺される誰かが。遺伝的要因ではなく、ウィルスに感染したわけでもない。
それなのに、不治の病に侵されてしまう……。
そんな誰かが"彼女"だった、ただそれだけの話。
「……せん、せい? あー。ひかりに、ごめんって伝えてくれる?」
──寝ちゃってたんだよね。迷惑、掛けてると思うから。
目を覚まして開口一番、ノゾミは仕事の心配をしていた。どう伝えていいか分からなかった。彼女が倒れてから、既に一ヶ月が経っていること……恐らくは、二度と学校には戻れないこと。
拳を震わせて、喉まで出かけた言葉をまた嚥下して。おかしな大人を見たせいか、少女もどうやら察したよう。
「あぁ。そういう、こと」
病状も、余命も。こういった場合において、本人に伝えるかどうかは繊細な問題だ。
ただ、賢い少女のこと──カルテを盗み見て、自分の末路を知ってしまったらしい。
深夜の病室。
ちっぽけな紙切れをぱさりと落として、ノゾミは私に微笑みかける。
「……ねぇ、せんせー。ヒカリには言わないでほしいんだ。あとは……ふふっ、アオバにも」
それが。そんなものが、子供の発する言葉であって良いものか。
心配させたくないから。三日月を眺める横顔が、そんな穏やかな微笑みであって良いものか。
恐怖も、絶望も──悲嘆も、憤怒も。あって良いハズなのだと、そう伝えようとしたけれど。
「ぱひゃっ。どうせ……どうせ、"変わらない"んでしょ?」
それなら、笑っていた方がいい。
月へ手を伸ばす彼女に、私は何を言ってやれたのだろう。結局のところ、何も分かりやしなかった。
奇跡を願って、キヴォトス中を駆け巡って──治療法を探そうとして、科学も神秘も叶わなくて。
終わりの足音が聞こえるまで、正解なんて分からなかった。
◇
秋の風が吹いている。
人気のない湖のほとり、歩きやすい土の道。
春も過ごしやすいけど、花粉症があるからなぁ。だからやっぱり、秋の方がいいよ。冗談めかして笑う彼女に、私は愛想笑いすら返せなかった。
彼女はもう、次の秋を迎えることはないのだから。
「ごめんね、せんせー。いそがしいのに、気を遣わせちゃって」
冗談を言わないでくれ。すぐさま返した言葉は、震えていないと良いのだけれど。
代わりに死ねるなら死にたかった。癌でも事故でも、事件でも不運でも。未来が開けている子供の代わり、理不尽に遭うのならこんな大人のハズ。
秋空にそう叫びたくとも、薄雲の向こうに神などいない。
「……ヒカリには、悪いこと、しちゃうなぁ。大学。いっしょに行こうって、やくそくしたのに」
ヒカリもアオバも──他の同級生だってそう。
自分に先がないということを、ノゾミは誰にも伝えたがらなかった。
心配させたくない。どうせ哀しませてしまうのなら、その時間は短い方がいい。それに、何より、
「……嫌だもん。たのしい思い出が、ふえちゃうのは」
三十秒に一歩。時には私の手を借りて、細い身体を預けて。ゆっくりと歩みを進めつつ、少女はぽつぽつ独り言ちる。
それこそが本心なのだろう。周りにとっても……自分にとっても。掛け替えのない時間を過ごすほど、訪れる喪失は大きくなる。
『それならば』と、賢い子供は笑ってしまう。
「泣くよりは、わらってた方がいいよ。わたしも、みんなも」
何が正解か分からなかった。
私だって気付いている。そんな言葉はまったくの本心でないこと、彼女だって心のどこかでは……怖いこと。
それでも、最期を選ぶのは彼女自身。だからこそ、私にできることは……。
「……ふふっ。あのベンチまで、連れてってよ」
軽くなってしまった少女を抱いて、残り少ない秋を歩く。
ノゾミの余命は半年を切った。笑うべきか、泣くべきか──近付いてくる死神の足音、最後に何をするべきか。ただそれだけが問題だった。
◇
診療所は雨だった。
ぽつぽつと──ざあざあと。分厚い窓ガラスを、勢いを増す雫が叩いている。暖炉に薪を遣った。どんなに寒くても、彼女は弱音を吐いてくれないから。
「……せんせー。ねぇ、せんせー。いるよね」
余命は三ヶ月を切った。
苦しみを和らげる薬の影響で、彼女の目はもう殆ど見えていない。暗い暗い雨の空。瞼を開けてみても、映るのは水中みたいな曖昧な景色。
耳すらもよく聞こえていないから、私はそっと手を握った……けれど。
「せんせー。手、にぎってよ」
気付いていなかった。
既に末端の感覚はなく、私の感触や体温にすらも。
『ここにいるよ』と伝えたくて、枯れた手を握り締めようとした。
その一瞬で壊れてしまいそうで、力を込めるのが怖かった。
「……ひか、り、」
死を待つだけの小さな家、少女の寝言は決まって三文字。
分かり切っていた。大好きな人たちが来てくれた方が、彼女にとっては幸せだと。もうすぐで、後悔をする機会すらなくなってしまう。
苦しそうに眠る少女の隣、私は電話を掛けようとして、
「……だめ。だめだよ、せんせい」
私の意図を察したのか、絶え絶えの声が鼓膜を揺らす。
みんなに心配を掛けたくない。たとえ──たとえ"そうした"ところで、代わりに遺すのが後悔だとしても。それでもせめて、今のみんなに心穏やかにいてほしい。
それこそが。ちっぽけな少女にとっては、それこそがせめてもの抵抗だった。
だからこそ、私は正解を見つけられなかった。見つけられないままに時間は過ぎた。
「こほっ。あのさ、せんせー? ちょっとだけ……怖く、なるんだ」
ちょっとだけ熱の下がった夕方、ノゾミは部屋の隅を指す。
ピアノがあった。大仰なものではない、よく見かけるような電子ピアノ。こうして療養先に持ち込むぐらい、ずっとずっと昔から──"二人の"部屋に置いてあったというソレ。
慣れ親しんだ思い出を指して、少女は乾いた呟きを漏らす。
「もうすぐで。わたしは、あの音を、きけなくなるんだよね。ずっと、ずっと……ずっと」
『死』なんて字を使ってしまうと、いつだって曖昧に見えるもの。遠くにあるようで、形なんてないようで。
だけれども、代わりにあるのは永遠だ。二度と来なくなってしまう。『もう十分』とぼやく朝も、『まだ木曜かぁ』なんて笑う昼も。『夜ごはんは?』って迷う夕も、『ねむれないや』なんて笑う夜も。
小鳥の歌も転がる枯れ葉も、ピアノの音色も──貴方の声も。永遠に聞こえなくなる、ただそれだけが『死』というもの。
迫りくるソレの輪郭が分かってしまった、きっとそのせいに違いない。
「しにたくない」
痩せた両手で顔を覆って、
微笑みを恐怖で塗り潰して。
窓の震える雨の空、
絞り出した六文字が"足音"に溶ける。
「しにたくないよ、せんせい」
もしも。
私の血で彼女が救えるのなら、今すぐにでも首を描き切った。
もしも。
願いを叶える神がいるのなら、恥も外聞もなく土下座をした。
「……なんで。なんで、わたしだったの?」
限界が来ていた。
余命はあと三ヶ月、意識が失くなるのはもっと前。何が正解で、何が不正解で──それすらも分からない愚かな大人。
ソレは、震える少女を抱き締めようとして……結露から言うのなら、そうはしなかった。何故ならば、先に人影が横切ったから。
「せん、せい?」
誰かに抱き締められている。
ぎゅっと、それでいて優しく。扉の開く音がして──それから、覚えのある匂いが鼻孔をくすぐる。
私ではないと気が付いて、それなら誰かと首を傾げて。
その声がする前に、どうやら彼女も判ったらしい。
「……ひかり?」
返答の代わりに嗚咽があった。
幾億の言葉を呑み込んだような、何万もの年月を経たような。
この場所を突き詰めたお姉ちゃんは、妹をぎゅっと抱き締めている。どんな言葉より、どんな時間より。ただそれだけが、きっと大切だったから。
緩やかに流れる時間の中、もうひとつの声がする。
「ばかですよ。あなたも……の、ノゾミも。ほんとうに、ばかじゃないですか」
ヒカリも、アオバ。二人はすべてを知ったらしい。
ちょっと大きめの病気が見つかった──それにしては、ずっと帰ってこない大切な人。口を閉ざす大人なんか気にもせず、終いには病院へ突撃して。
それが幸運か不幸かなんて、永遠に分かりやしないけれど。
手遅れになる前に、二人はこの場所に来てしまった。
「……わかりますよ。えぇ、仕事人間ですから。私たちを……哀しませたく、なかったんだって、」
気付いているのだろうか。
恨み節にも似た台詞。それと同時に、大粒の涙が零れていること。
アオバが泣いたのは初めてだった。ハイランダーに入学して、それからもそれまでも辛いことなんてたくさんあって。
それでも、呪いを吐くだけで……涙なんて、映画を見ても出てこない。それなのに、何故だか溢れて止まらなかった。
「……あお、ば?」
「ばかです。ほんとうに、ばかなんですけど」
ビンタでもしてやりたかった。
それでも、もうそんな冗談は通じないから。振り上げた手を遣る瀬無く下ろして、それでも気持ちが収まらなくて……内海アオバは、ノゾミを頭をポンと撫でる。
意味なんて自分でも分からない。
ただ、そうしたかったから。そうしないといけなかったから。
「けほっ。あぁ、あーあ。どうするのさ、もう、」
頬にも目元にも感触は無い、自分は涙を流しているのだろうか。
それすらも分からないまま、ノゾミは乾いた笑みを零す。
もっと悲しくなってしまった。
独りを気取って死ねたのなら、波風立たずに終われたのなら──こんな時間が愛おしいって、そう思わずに済んだのなら。
こんなに哀しくはならなかったのに、少女はそう呟くけれど。
「……ひかり?」
「……ノゾミ。ちがうよ、ちがう。ヒカリたちは、ずっと傍にいるの」
色んなものを呑み込んで、片割れの一人は肩を抱く。
もはや未来は変わらない、時間はあまりに立ち過ぎた。もう手遅れかもしれない──辛い記憶が増えるだけかも。
だとしても、まだ時間はあるのだから。
涙ぐむ声も雨音も、まだ聞こえているのだから。
「さいごまで、いっしょにいよう。たのしい思い出を、ふやしていくの」
それだけが回答だった。
正解か不正解かなんて分からない。この選択を、いつかの誰かは悔いるのだろう。よぎった未練も後悔も、彼女のいない永遠に解けるのだろう。
だとしても──それこそが回答だった。
閉じていく未来と、聞こえてくる足音と。
踊る雨のオーケストラ、旅立ちを告げる朝だった。
◆ ◆ ◆
少女の死から三年が経った。
振り返ってはみれど、"あの選択"が正解かなんて分からない。
あの笑顔はなかっただろう。
みんな一緒にいなければ、静かな湖畔で遊ばなければ。
死を前にした少女は、あんなに楽しそうには笑わなかった。
あの涙もなかっただろう。
みんなが来なかったのなら、独りで死んでいたのなら。
『しにたくない』って繰り返して、その息を引き取る少女はいなかった。
時間は経つ、季節は巡る。
だけれども、ピアノの音色を覚えている。
彼女がまだ動けるうち、
二人揃って楽しく弾いた──。
ちょっとだけ不器用で、
それでいて踊るようなあの音色。
あの診療所は取り壊され、
ピアノも処分してしまったけれど。
綺麗な音色を覚えている。
いつものように巡る秋、あの一瞬を覚えている。