大学三年の秋。
その電話は教育実習の準備をしている時にかかってきた。
見慣れない番号。
広井は何気なく通話ボタンを押す。
「広井くん?広井くんでしょ?」
女性の声だった。
慌てている様子だが聞き覚えがある。
陽菜の母親だった。
すぐに胸がざわついた。
嫌な予感というのは不思議なくらいよく当たる。
「陽菜が……」
その後の言葉はうまく頭に入ってこなかった。
病院。
事故。
救急搬送。
意識不明。
断片的な単語だけが耳に残る。
気づけば広井は走っていた。
駅まで。
電車の中でも。
病院の廊下でも。
何かの間違いであってくれ。
そう願いながら走り続けた。
病室の前には陽菜の家族がいた。
父親。
母親。
妹。
みんな青白い顔をしていた。
広井は震える声で尋ねる。
「陽菜は……」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙で理解する。
世界から音が消えた。
医師からの説明を受ける。
何か言われたけどわからない。
なにひとつ覚えていない。
覚えているのは病室のベッドに横たわる陽菜の姿だけ。
まるで眠っているようだった。
今にも目を開けそうだった。
「広井?」
すぐにでも呼びかけてきそうだった。
けれどもう広井を呼ぶことはない。
陽奈の手を握る。
冷たい。
その現実だけが、どうしようもなく重かった。
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葬儀の日。
快晴だった。
こんな日にどうして。
広井は何度も思った。
どうして陽菜なんだ。
もっと悪い人間なんていくらでもいるのに。
どうして優しい人からいなくなるんだ。
答えはなかった。
誰も持っていなかった。
棺の中の陽菜は穏やかな顔をしている。
まるで眠っているようだった。
最後のお別れの時間。
広井は何も言えなかった。
ありがとうも。
さようならも。
なにひとつ言えなかった。
ただただ涙だけが止まらなかった。
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その後の数か月はほとんど記憶が曖昧だった。
大学には通った。
授業も受けた。
でも心はどこか遠くに置き去りになっている。
何を見ても楽しくない。
何を食べても味がしない。
未来を考えることもできなかった。
あれほど目指していた教師という夢さえも、すっかり色を失いかけていた。
そんな冬のある日。
広井は久しぶりに実家へ帰った。
自分でも理由は分からない。
ただただ疲れていた。
何もかもに。
夕方。
気づけば駅前の広場へ向かっていた。
あの場所。
斉藤と出会ったアノ場所へ。
ベンチに腰を下ろす。
風が冷たい。
空を見上げる。
昔と変わらない景色。
なのに。
隣にいるはずの人がいない。
会いたい人が二人ともいない。
斉藤も。
陽菜も。
広井は拳を握った。
悔しかった。
悲しかった。
寂しかった。
そして初めて声に出した。
「なんでだよ…なんで…」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
神様か。
運命か。
この世界か。
ただ吐き出したかった。
「なんでいなくなるんだよ……」
涙がこぼれた。
止まらなかった。
その時だった。
一人の少年が広井に近づいてくる。
小学校高学年くらいだろうか。
ランドセルを背負っている。
少年は広井を見上げた。
そして言った。
「お兄さん、泣いてるの?」
広井は慌てて顔を背ける。
「いや」
「嘘だ」
少年は真顔で言う。
広井は少しだけ笑ってしまった。
子どもというのは容赦がない。
少年はベンチの端に座った。
しばらく沈黙。
そして突然つぶやいた。
「僕も泣いたことあるよ」
広井は驚いた。
「そうなの?」
「うん」
少年は前を向いたまま答えた。
「おばあちゃんが死んだとき」
広井は何も言わなかった。
少年は続ける。
「そのとき先生が言ったんだ」
風が吹いた。
落ち葉が転がる。
「いなくなった人は会えなくなるんじゃなくて、その人からもらったものの中で生き続けるんだって」
広井は息を呑んだ。
その言葉はどこかで聞いた気がする。
斉藤の手紙。
陽菜の笑顔。
今まで出会った人たち。
彼らが残していったもの。
それは本当に消えたのだろうか。
違う。
今の自分の中にある優しさも。
人の話を聞こうとする姿勢も。
教師になりたいと思った理由も。
その多くは彼らから受け取ったものだった。
少年は立ち上がった。
「じゃあね」
広井は後ろ姿を見送った。
ふと斉藤のことを思い出す。
人は自分が思っている以上に、誰かの人生に影響を与えている。
広井はゆっくり立ち上がった。
冷たい夜風が吹いている。
それでも。
ほんの少しだけ前を向ける気がした。
陽菜はもういない。
その事実は変わらない。
でもその悲しみを抱えて生きていくことはできる。
そしていつか。
自分も誰かに何かを渡せる人間になりたい。
斉藤がそうだったように。
陽菜がそうだったように。
広井は静かに歩き出した。
最後の一年が始まろうとしていた。