『「命のヴィザ」言説の虚構』で杉原千畝が「ナチスの迫害から」ユダヤ人を救ったわけではない、と明らかにした菅野賢治は、その後『「命のヴィザ」の考古学』で、この言説が広まった過程を追跡している。最終的に菅野は、「日本人すべてが好戦的で残虐だったのではない」と思いたがる人々こそがこの言説を広めたのではないか、と示唆している。
従来の「命のヴィザ」言説では杉原は、外務省に逆らってユダヤ人のためのヴィザを発給した、ということになっている。しかし、『虚構』で菅野が明らかにしたように、当時の外務省がヴィザの発給を制止した、という史料は残されていない。杉原は後に外務省を依願退職しているが、これは戦後の人員整理の一環でなされたものであり、決してヴィザ発給が原因でクビになったわけではない(現に杉原には退職にあたって金一封が送られており、1944年には叙勲もされている)。
つまり、杉原は別に自分の地位をかなぐり捨ててユダヤ人を救おうとしたわけではない。この事実は、ヤド・ヴァシェム(イスラエルのユダヤ人大虐殺を記念するための施設)による「諸国民の中の正義の人」認定と関連している。1968年に杉原が認定審査の対象となったとき、ヤド・ヴァシェムは「ユダヤ人を救おうとする行為によってみずからの生命ないし地位を危険にさらした、とは言えない」との理由で、称号を与えなかった。
しかしその後、杉原が外務省に逆らってヴィザを発給した、という(根拠に乏しい)言説が広まりだすと、1984年にふたたびヤド・ヴァシェムによる審査が行われ、彼は「諸国民の中の正義の人」と認定された。そもそもこの再審査が行われたのは、駐日イスラエル大使館による提起がきっかけだった。1982年にイスラエルはレバノン侵攻の過程で、サブラ・シャティーラでパレスチナ難民を虐殺した。これにより国際的に批判されたイスラエルは、イメージ回復戦略を練るようになる。日本の場合、杉原を顕彰することで関係を回復する、という策略が採られた。
こうして、当時限られた人にしか知られていなかった杉原の名前は一躍日本中に知れ渡るようになる。1985年には小橋靖という人物が顕彰会を作り、イスラエルに記念の植樹をするようにまでなった。小橋は『朝日新聞』の取材にたいして、「日本人すべてが好戦的で残虐だったのではない。身を殺して仁をなした人もいた! この事を世界に知らせねば」と一念発起したという。菅野はこの記事をふまえて、これこそが「命のヴィザ」言説を広めた原因ではないか、と推測している。彼は本書の末尾でこう述べている。
「自国の戦争時代の過去が、必ずしも黒一色、悪一辺倒だったわけではない、近隣のアジア諸国からも責められっぱなしの道理はない、と思い、思わせることをつうじて、心理的に何を補い、償い、贖おうとしているのか、視線を二重にして観察しなおしてみるだけでよいのだ」(『「命のヴィザ」の考古学』、共和国、p335)
つまり、「命のヴィザ」言説が30年以上にわたってまともに検証されることなく広まったのは、そのほうが日本人にとって都合が良かった、ということだ。戦中の日本人は体制に逆らうことなく、戦争に加担し、他国の人々を殺害しづけた――それはすくなからず戦後の日本人のプライドを損ねる事実だった。日本人はプライドを修復するための事実を欲していた。そこにやってきた「外務省の命令に逆らい、ヒューマニズムの名のもとにユダヤ人をナチスの魔の手から救おうとした日本人がいた」という「美談」は、日本人の罪悪感をいくばくか和らげるものだったのだ。
杉原千畝がビザを発給したのは「ナチスの迫害」が原因ではなく、ソ連の全体主義の恐怖が原因だった、という菅野賢治の研究がもとになった記事だが、彼はその後、なぜ「ナチスの迫害」が原因とみなされるようになったのか、という問題にも取り組んでいる。実はこれにはイスラエルが一枚噛んでいる。