写真の中の建物は、一見するとヨーロッパの宮殿か官庁のように見える。しかしここは、日本が朝鮮の京城(ソウル)、龍山に建築した朝鮮総督官邸である。
1908年、日本軍は日露戦争後に残った軍備余剰金約50万円を投じ、龍山に朝鮮駐箚軍司令官官邸の建設に着手した。設計を担ったのは、当代の日本宮廷建築を主導していた片山東熊であった。彼は当時、赤坂離宮と東京国立博物館表慶館を相次いで完成させ、活動の絶頂期にあった建築家であり、ネオバロック様式の宮殿建築の分野において独歩の地位を占めていた。こうして1909年に竣工したこの建物は、翌年に韓国が日本に併合され統監府が朝鮮総督府へと改編されるにともない、朝鮮総督官邸へとその用途を変えた。
この官邸は、華麗なネオバロック様式を採用した西洋式宮殿の形態をとっていた。2階建ての躯体に高い切妻屋根を架け、ドーマー窓を設け、立面全体をネオバロック様式で装飾したこの構造物は、国家記録院所蔵の図面によれば延床面積約2,000㎡、部屋数だけで30を超える巨大な規模を誇っていた。庭園もまた莫大な費用を投じて美しく整備され、当時の朝鮮民衆のあいだでは、その過剰な豪奢さと壮大さゆえに「龍山の阿房宮」という蔑称で呼ばれた。
この反応は、朝鮮民衆だけのものではなかった。完成した官邸の規模は、政治的序列において上位に立つ伊藤博文初代統監の官邸をも凌駕するものであり、一介の現地駐屯軍司令官が戦後の残余資金を注ぎ込んでかかる超豪華施設を建造したことに対し、当時の日本政界内外からも軍部が度を越えるという批判が上がった。ただしこの批判は、予算の流用そのものが法的手続きを逸脱したことに起因するものではなかった。当時の明治憲法体制のもとで統帥権は天皇の大権事項に属し、内閣や帝国議会の統制から独立していた。これにともない、戦時軍備余剰金の流用は議会の事前承認を要せず、軍令系統の内部で処理しうる構造となっていた。結局この論議は、手続き上の違法の問題というよりも、当時絶大な権力を振るっていた日本軍部の傲慢な予算執行がもたらした結果であった。
しかしこれほど壮大な規模でありながら、実際の総督の居所としてはほとんど活用されることがなかった。当時の行政の中心地であった南山倭城台や景福宮方面からの距離が遠すぎ、通勤と警護に致命的な難点を抱えていたうえ、膨大な電気料金と維持費の負担も障害となっていたためである。歴代の朝鮮総督はこの建物を顧みることなく、南山倭城台の旧統監官邸を主たる居所として使い続けた。1939年、景福宮北側の景武台(現在の青瓦台の敷地)に新官邸が竣工して以降は、そちらへと居所を移した。龍山官邸は、日本統治時期の36年間を通じて、ただの一人の総督も実際に居住することのなかった空間として終わった。かつて龍山官邸への移転計画が検討されたこともあったが、結局実行には移されなかった。結局この巨大な殿舎は、平時には専任の官員によって維持管理されるのみで、大規模な公式宴会を催す折や、皇族および西洋の賓客が朝鮮を訪れた際に逗留する迎賓館としての用途に限って主に使われた。
解放後、米軍が龍山一帯を軍用地として接収したことにともない、官邸の建物もまた在韓米軍の管轄下に入った。当初は米第7師団の尉官級将校宿舎として転用され、1949年の在韓米軍撤収後は米軍事顧問団(KMAG)の将校クラブとして使われた。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争の際、激しい爆撃を受けて屋根部が全焼し、建物の相当部分が半壊する致命的な被害を蒙った。その後長期にわたって破壊されたまま放置されていた龍山総督官邸は、1950年代後半の米軍基地内施設整備の過程で最終的に取り壊された。完全に取り壊された官邸の跡地に在韓米軍のための第121病院(現ブライアン・オールグッド陸軍病院)が建てられ、かつて植民地権力の威勢を誇示した華麗な建築物は、跡形もなく歴史の中へと消えた。
それから長い歳月を経て在韓米軍基地の平沢移転事業が推進されるにともない、この跡地に位置していたブライアン・オールグッド陸軍病院もまた平沢キャンプ・ハンフリーズへと全面移転した。明け渡された当該敷地は在韓米軍から韓国政府へ返還され、現在は当初の計画どおり龍山公園の一部として組み込んで生態緑地として復元するか、あるいは国軍ソウル地区病院など新たな軍医療施設の敷地として再活用するかをめぐり、最終的な用途について深く議論が続いている。
(写真説明)
1, 2. 龍山総督官邸の全景
3. 龍山総督官邸の正門。皇室の紋章が刻まれている。
4. 朝鮮戦争中に爆撃を受け、屋根が破壊された龍山総督官邸
(写真出典:ウィキメディア・コモンズ、ソウル記録院)
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