公共経済学試験の冒頭の引用。昨年はボリスジョンソン、今年は、宇沢弘文先生の社会的共通資本の導入部分からにしました。
「社会的共通資本は、決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また市場的な基準によって左右されてはならない。」
宇沢弘文のように、世界最高峰の数理モデルを完璧に扱いながら、シカゴ大学の終身教授という地位をドブに捨てる覚悟で人間の顔をした経済学を貫き、成田闘争の現場から地球温暖化まで、文字通り命を懸けて権力と闘ったような骨のある知識人は、今の日本を見渡すと絶滅してしまったように見える。
宇沢の時代、大学はまだ権力から独立した学問の府としての体裁を保っていた。
しかし、新自由主義(フリードマン的改革)が浸透した現代の大学は、国からの運営費交付金を削られ、自力で外部資金(ビッグテックからの寄付金や政府の国策プロジェクト資金)を稼ぐよう強いられている。
組織のトップから現場の研究者に至るまで、予算という首枷をはめられているため、政府の方針や米国を正面から批判した瞬間に研究室ごと干さる。
かつての宇沢のように、学界の権威を盾に時の政権を怒鳴りつけるような真似は、今のシステムでは不可能だ。
宇沢は数学者であり、経済学者であり、同時に社会思想家でもあった。自動車の社会的費用から農村の崩壊まで、社会を一つの有機体として捉えていたからこそ、本質的な批判ができた。
しかし現代のアカデミズムは、査読付き論文のポイントを稼ぐために、研究領域が極限まで細分化されている。
AIの電力問題を言う人は地政学を語らず、格差を言う人はデジタルガバナンスを語らない。結果として、全体像を俯瞰して、巨悪を突く骨のある思想が生まれにくくなっている。
いま、日本の言論空間で宇沢のような真っ当な批判を展開しようとすると、メディアからは干され、SNSではインフルエンサーや工作アカウントによって反日や過激派といったレッテルを貼られ、徹底的に叩き潰される。
結果として、今の日本で骨のある人間が何をしているかといえば、表舞台で目立つことを避け、現場レベルで面従腹背を貫きながら、技術や知見の流出をゲリラ的に防ぐ防衛戦に潜伏している。
彼らは残っていないのではなく、表に出たら消されるから、地下に潜っている。
宇沢は晩年、チリやアメリカ、そして日本で新自由主義が社会を破壊していく様を見ながら、激しい絶望の中にいた。
しかし、彼が遺した『社会的共通資本』や『自動車の社会的費用』という思想の種は、完全に死んだわけではない。
公式な知識人(御用学者)が全員、大富豪や米国のコンサルタントに成り下がったとしても、その欺瞞を冷徹に見抜く民衆の眼が残っている限り、この国が完全にATMとして骨までしゃぶられ尽くすのを防ぐ最後の防波堤は、まだ壊れていない。