京都大学文学研究科の院生です

Joined October 2013
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マルクス主義者の間ではヘーゲルはヘーゲル左派と共にマルクスに乗り越えられたとするのが一般的な理解だが、果たしてそうだろうか?例えばヘーゲルの『精神現象学』におけるフランス大革命を扱った絶対自由とテロルの問題はマルクスの射程になかった20世紀の全体主義の問題を先取りしており、マルクスがヘーゲルを乗り越えたとは必ずしも言えないと思う。
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「フォイエルバッハテーゼ」におけるマルクスのこれまでの哲学者は世界を解釈してきた、しかし大事なのは世界を変革することだ、という言葉はマルクス主義者の間で非常に好まれる言葉だが、果たしてそこまで深い意味のあるフレーズだろうか?実践が大事なのは当然として実践には現実の解釈と理解が不可欠なこと、マルクス自身も結局は資本主義社会の現実の理解と解釈に心血を注いだことを考えると、このフレーズだけ抜き出して実践の重要性を語るのはただの精神論にしかならないだろう。
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トランスジェンダー差別の文脈で性別が自認で決まるなら年齢も自認で決まるのかというバッシングがなされることがよくあるが、私は年齢も自認で良いと思う。そもそも生物学的な意味での年齢と過去の経験や精神の発達に応じた精神年齢は異なるし、本人の気が若いなら生物学的な年齢よりも10歳あるいは20歳年下を名乗っても良いと思うし、公的書類の年齢記載欄にも自認する年齢で書けてしかるべきだと私は考えている。
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正規雇用に比べていわゆる非正規雇用は身分保障が不充分ですぐに辞めさせられやすいし、賃金も低い水準で、福利厚生も薄いが、この問題の解決のためには正規雇用を増やすことのほかに非正規雇用の身分を正規雇用同様に保障して賃金・福利厚生も正規雇用と同様にすれば良い。障害や病気、育児や介護のためにフルタイムの労働が難しい人が現実にいることを考えると労働時間の短い非正規雇用でしか働くことが出来ない人のために労働時間の短い雇用形態自体は必要だろう。問題は雇用形態ではなくて、身分保障と待遇であることを考えると、正規・非正規の区別を単に労働時間のみとして、身分保障・賃金・福利厚生を同等にすれば、いわゆるワーキングプアの問題は相当程度解決するのではないのか。企業が労働者に賃金や福利厚生を十全に提供出来ないなら、差額を国や自治体が全額補填すべきである。少なくとも労働時間で労働者を差別する今の雇用形態はやめるべきである。してみればイエスのぶどう園の労働者のたとえはいわゆる非正規労働者差別に対する反駁と読み替えられるのではないのか。
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今日のお昼は元田中の私の家の近所にあるうどん屋さんの麺よしで肉うどんセット。
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既存の社会で最も割を食うのはそこそこ仕事が出来て身体もそれなりに健康だが、低賃金で職場環境の悪いとこで非正規で働いている人ではないかと思う。障害や病気ゆえに就労が困難な人は自立支援医療・障害者手帳の交付・ホームヘルパーの利用・障害年金といった福祉制度につながりやすいし、障害者雇用枠で働く道もあるし、生活保護も比較的取りやすいが、そうでなくて、低賃金で職場環境の悪いとこで働いている人は福祉につながりにくい上に賃労働を通して体力を消耗させられてしまうし、かつその辛さが可視化されにくい。
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マルクス主義は宗教を否定するものと一般的には捉えられていて、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」における宗教は阿片である云々のくだりはよく持ち出され、実際に社会主義政権のもとで宗教は抑圧されてきたわけだが、同論文をきちんと読むと、マルクスは宗教を社会的諸関係の産物として捉え、宗教を単なる個人的な迷信とは切り捨ててはいないのが分かる。さらにレーニンも「宗教と社会主義」のなかでマルクス同様に宗教を人民の阿片と捉え、無神論の立場を取るが、その上で宗教を階級支配から生まれる産物と見なし、単なる啓蒙では宗教は乗り越えられず、啓蒙で個人的な宗教心をなくせるなどというのはブルジョア的な浅はかさと見なし、社会主義運動にキリスト教徒が入ってくることを拒むべきではないと述べている。そのことを踏まえると、宗教に対する社会主義政権の強圧的な政策はマルクス主義的にも誤りだと言える。
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紙たばこよりもパイプたばこの方がずっと良いと思う。私は読書の合間によくパイプを吸うが、パイプの方が紙たばこよりも香りが断然良いし、かつ刻みたばこは一袋40グラムから50グラムくらい入っていて、値段と絡めて考えても、1箱20本のパイプよりもずっとコストパフォーマンスが良い。パイプを掃除して刻みたばこを入れて火をつけるのに手間はかかるが、それも慣れればなかなかに趣きがある。
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動物園って基本的には動物虐待じゃないかと思う。動物園の動物は基本的に檻のなかで暮らしていて、餌の時間に職員が檻まで運んできた餌を食べ、開園時間にお客さんに檻のなかで過ごしている様子を見られるわけだが、これは端的に言って人間で言えば監獄に閉じ込められかつ、軟禁されている姿を晒し者にされているようなものだろう。留置場では便所は便器の周りに仕切りはあっても用を足している姿は鉄格子の外から警察官に見えるし、食事は檻の外から小さな開口部を通してトレイにのせられて運ばれる。留置場に閉じ込められている被疑者の生活は動物園の動物とその意味では、よく似ているが、動物の場合はさらに公衆の面前に晒し者にされる。このようなことが当然視される背景には人間以下と見做した存在には尊厳など認めないという発想が前提にある。植民地主義やレイシズムの文脈で被差別対象を動物に例える語りがよくあり、実際被差別対象の人間を動物園の動物と同じようにイベントで展示した例も日本を含めてあるが、あれはこのことの証左だろう。
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社会運動界隈といわゆる不良グループにはさまざまな共通点があると思う。前者からは後者はルンペンプロレタリアートとして否定的に見られやすいが、どちらも仲間内での仁義をきちんと切ること、現場での知恵が必要なこと、警察権力と敵対的であること、現場で動くにはそれなりの体力と度胸が必要なことである。にもかかわらず、両者が基本的に交わることがなく、暴走族・半グレ・ヤクザから新左翼活動家になった人の話をあまり聞いたことないし、社会運動に参加する前に振り込め詐欺のグループにいたとか覚醒剤の取引で稼いでいたとか言う人の話をあまり聞かないのは、出身階層や学歴の違いが大きいと思う。してみれば、社会運動への参加の機会も1つの特権なのだろう。
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吉田寮から元田中に引っ越して1人暮らしをはじめて2ヶ月以上が経つ。パイプを吸いながら、寮生活を振り返ったりしているが、吉田寮の現棟で1つ不便だったのはセックスをする場所として現棟の部屋は使いにくかったことである。セックスなどやれば音が隣の部屋に聞こえるし、2階なら下の階まで揺れが伝わるためである。したがって、寮生がセックスをする時はラブホテルを利用することになり、無駄に支出が嵩むことになった。これは現棟の不便なところだった。
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文体と性別にはやはり相関関係がないのではないかと思う。イリガライは女性性は女性的な言語で構成され、それは男性性のそれとは明確に異なるものと論じているが、やはり違うと感じる。身近な例で言うと、私の知人に自分の日常生活でふと感じたことや体験を切り口に社会のあり方について幅広く展開するのが巧みな人がいて、文体が女性的だと評されたりもするが、本人は私が知る限りシスジェンダーかつヘテロセクシュアルの男性である。一方、私はトランスジェンダー女性だが、文体がごりごりしていて男性的な言語だとしばしば言われる。文体のスタイルや雰囲気は書き手の感性や人生経験などに左右されることはあっても性別で決まることはないと感じる。その意味ではやはりイリガライの議論は男女二元論の限界を強く印象付けられる。
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現代人にとってインターネットは他者とのつながり、世間との触れ合い、エンターテインメントの享受、情報収集などさまざまな機能を持ち、日常の生活空間とは別の第2の生活空間になっている側面が強い。いわゆるネットリンチやネットストーカーが心身を消耗させる理由の1つとしてインターネット上の世界が第2の世間になっているため、ネットでの攻撃が自分の預かり知らぬところでの悪口の拡散・嫌がらせの実在を強く感じさせてしまうからである。その意味ではインターネット上での攻撃は得体の知れない形で拡散されるだけ顔の見える範囲での攻撃よりも心身にダメージをもたらすとも言える。ネットリンチやネットストーカーの悪質性はもっときちんと世間に知られてしかるべきであるし、対策の各方面での徹底がなされ、厳正な対処法が共有されることが望ましい。
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学校のいわゆるスクールカーストにおいては小学校の低学年の段階では体育が出来ることがカーストで上位に位置するための条件となり、これが次第に学年が上がると学力がスクールカーストの序列を決める要素として次第に強まり、中学受験、高校受験を経て形成される学校間の偏差値による序列と並行して学力によるカーストが特に進学校では形成されるが、この現象はヘーゲル的に言えば、人間の自然からの自立と対象化のプロセスと相似である。ヘーゲルにおいては、自然秩序と距離感がない状態から自然を対象化し、個人が自然から離れて立ち上がる過程が精神の発展だが、これを学校のスクールカーストに応用すると、体育が出来る子を最も一目置く=自然秩序により与えられた所与のものへの肯定であり、それが学力によってスクールカーストが形成されるようになるのは知による自然の対象化が子どもの世界で重要な要素になってくるということである。その意味では、学校教育においては人間の知による自然の征服という近代人の価値観によって文化が形成され、差別・選別がなされるのである。
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極限値=1に対して無限に近づきつつもしかし決して1そのものにはならない数列が等式上は極限値に対して=となる微分法を応用して革命という出来事を考えるとどうなるだろうか。革命としての出来事を極限値=1と措定して、革命を意識的にせよ無意識的にせよ志向する運動の総体を極限値に限りなく近づいて収束しつつしかし極限値と=にはならない数列と措定してみれば、大文字の革命としての革命は遠い未来まで含めて決して生起しない、あくまでも観念上の出来事となるが、しかし今ここで生起している個々の革命運動―運動の担い手が革命運動の実践の自覚をしているか否かは別として―がその総体として大文字の革命と=となり、すなわち革命そのものということになると見てよいのではないのか。ならば、微分法の観点からは革命とは今・ここの実践がすべてで彼岸の先に存在するものではないとなる。要は革命は日々生起しているのだ。それはイエスが神の国は人と人の間にすでに存在していると言ったのと同じ位相にあることである。
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数学の微分法が面白いのは、例えば極限値=1に対して無限に近づきつつもしかし決して1そのものにはならない数列が等式上は極限値に対して=となることである。これは哲学で言えば、物自体と物自体に感覚器官を通して迫っていく無限の人間の認識能力の働きの積み重ねが等式上=になるようなものであり、人間が感覚器官を通して認識する世界と人間の感覚を離れて存在する実体が実は同一のものであるというのと同じである。要は微分法は主客の一致、主客二元論を越えた地平にあるのではないのか。
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アーレントはフランス大革命を『革命について』のなかで否定的に論じ、自由ではなく平等を目標としたジャコバン派は平等の実現という際限なき抽象的目標を目標としたために無制限のテロルの行使につながったと論じているが、アーレントの議論はヘーゲルの言う悪無限の議論と重ねると分かりやすい。要は平等というものがでは何をもって平等なのかという明確な指標を欠くために暴力的な均等化=平等となってしまうためである。このヘーゲルの悪無限の概念を介して反差別運動を考えると、まずは具体的な獲得目標を反差別運動のなかにしっかりと定位することが肝要となる。これが抽象的な「他者への応答責任」や「他者への倫理」を貫徹されることを目標とするとゴールが不透明になるので運動が悪無限の罠に陥ることになるし、結果として運動が観念の次元に滞留してしまう。
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異性にもてる、もてないで悩んで拗らせている男性の話をよく聞くが、いわゆる恋愛市場での敗北が身に応えるのは権力への意志の挫折と深く絡んでいよう。異性を恋愛を通して獲得していくのは性的魅力によって異性を所有して服従させる行為であり、その意味では恋愛とは権力への意志を発現させる行為である。もてないことで拗らせるのに男性が多いのは、男性は現在の社会においては男性特権を所有しており、女性を支配・服従させることが男性特権のなせるわざとされるため、女性にもてないことは男性にとっては特権の喪失あるいは男性社会でのヒエラルキーの次元での転落を意味するため、去勢された感覚を伴い、権力への意志の挫折として男性には受け取られやすいからである。したがって、男女の恋愛関係におけるセックスは男が女を所有する儀式とも言える。その意味では、ドゥオーキンのようにすべてのセックスを性暴力と捉える見方はあながち外れではない―ドゥオーキンにおいてはシスヘテロの男女関係のみが性関係において想定されており、かつセックスを通して女性が主体性を獲得する可能性を無視しており、非常に雑な議論がなされているので私は必ずしも同意しないが―のである。恋愛関係に絡んだセックスに対してセックスワークは金銭を媒介にした性関係であり、所有と支配を伴う関係とはこの点で異なる。セックスワークを金銭による女性に対する男性による支配と見なす見方が性産業廃止論者には根強いが、むしろ金銭という対価と賃労働という条件のもとでの縛りがあるセックスワークの方こそが所有と支配を生みにくい純粋にセックスを楽しむ関係と言えるのである。それゆえ、セックスの快楽の公平な享受はセックスワークのなかにこそあると言っても良いのである。
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