映画マイケル観てきた。ストーリーやドラマ性に関して退屈だという感想は同意するけど、マイケルの甥っ子が完璧に演じたという1点で評価したいな。IMAXで観たせいか後半のライブシーンがめちゃくちゃ良かった。歌も入れ直したっぽいよね。
『Michael/マイケル』
驚くほど退屈な映画だった。
児童虐待などマイケルの暗部を描いていないとか、そんなことは一切問題ではない。2時間の「劇映画」なのに、まともなドラマがないことが問題なのだ。もちろんまったくないわけではないが、とにかく薄っぺらく、つまらない。ドラマらしいドラマは「マイケルが横暴な父親から独立する」…ただそれだけ。それ以外にほぼ何もない。しかもその語り口が退屈極まりない。とてもではないが2時間をもたせるような内容ではない。
最初から最後まで父親のジョセフはひたすら悪い人で、マイケルは善良な被害者。そこに何の変化もなく、まともな葛藤も無い。しかも父親から独立する方法は「弁護士に、父親をマネージャーとして解雇するよう頼むこと」。そしてどうなったか? ファックス1枚で父親は解雇され、マイケルは無事独り立ちしました…って、何じゃそりゃ!?? 事実がどんな感じだったかは知らない。仮にあれが100%事実だったとしても、それを「劇映画」として見せる以上、もう少し劇として面白く見せる仕掛けや心理的な葛藤があるものだろう。
その後、『スリラー』で大ヒットを放ったマイケルは、結局短期間ジャクソンズに復帰するのだが、その復帰の経緯も「え?今の会話は何だったの?まさかあれだけの会話で復帰するの??」と唖然とするようなもの。普通「劇映画」であれば、ジョセフがもう少し手練手管を用いて、マイケルが嫌と言えない状況に追い込むドラマがあるものではないのか。本当にあれは一体何だったんだ。
とにかく全編にわたって、マイケルもジョセフもキャラとしてまったく変化がない。抑圧の仕方も抑圧のされ方も変化がない。つまりは「ドラマ」がないということだ。
また、マイケルが聖人君子のように描かれていること自体は、それはそれで構わない。問題は、そのようなキャラクターにまるで説得力がないことだ。
たとえばMTVで自分のビデオを流して欲しいという場面で「黒人としての誇りがある」みたいなことを言うが、「え? ここまでに何か、黒人としてのアイデンティティに関する伏線なんてあった? 黒人だが、ほとんどの白人よりも大金持ちで豪邸住まい。黒人としての差別や抑圧を受けている描写など1つもなかったし、黒人らしい鼻を整形するところなど、むしろ白人に憧れているように受け取られかねない描写ならあったが?」という感じだ。
あるいは「ビート・イット」のプロモビデオ制作のところで「音楽は世界の争いをおさめ1つにできる」的なことを言うが、思わず「ちょっと待て。少なくともここまで描かれてきたかぎりでは、お前にとっての〈世界〉とやらは、音楽と動物とお伽噺だけ。他に何もなかっただっただろう」と突っ込みを入れざるをえない。
そんな調子で何から何までが薄っぺらく、嘘くさい。聖人君子として描くなら描くで、マイケルが、そういう生き方をする動機みたいなものをもう少し説得力を持って描写すべきべきではないのか。
ドラマがないものは他にもある。マイケルのファンたちが、見事なまでに変化も成長もないのだ。ジャクソン5時代の幼いマイケルに熱狂する観客と、ラストのロンドンでのライヴに熱狂する観客に何か違いはあるのか? ない。何もない。見事なまでにない。マイケルの変化や成長に応じるわけでも、その心象風景を映し出すわけでもなく、本当にただ「熱狂する観客」という記号に過ぎない存在だ。強いて言えば白人が増えたという変化はあるが、先述の(説得力皆無な)MTVのシーン以外、この作品で人種問題が取り上げられることはないので、それが大きな意味を持つことはない。
しかもその観客の黄色い歓声が、異常なほど大きく、観客を撮すショットが多いから救われない。音楽自体は素晴らしいし、再現されたパフォーマンスもお見事。ところが観客の黄色い声がうるさすぎる。最後には失神して運び出される客が何度か映るが、そこに一体どんなドラマがあるというんだ? そんなものは1960年代のビートルズ関係の映画から何度も見せられた光景ではないか。2026年の今、それをしつこく再現する理由は何なんだ? 劇映画として、そこに一体どんな意味があると言うんだ?
この監督は、結局のところ音楽の力を信じていないのではないだろうか。音楽とダンスパフォーマンスのマジックを信じていれば、もっとそちらを集中的に描くはずであり、音楽の邪魔になるほど黄色い歓声を入れたり、クドいほど観客側の描写(しかもドラマ性なし)を入れたりする意味がない。音楽そのもので観客を熱狂させられることに確信が持てないから、「熱狂する観客」をあんなにしつこく入れたのではないか…そう疑わざるをえない。
とりわけ『スリラー』のあたりから、ラストのロンドンライヴまで、ライヴパフォーマンスの再現自体は見事である。しかしそれだけを見るなら、何もこんな三文ドラマがくっついた退屈な劇映画など見ずに、マイケル本人のパフォーマンスをレストアして大画面で上映してくれれば、その方がよほど楽しいはず。「劇映画」のくせに、「劇」の部分が壊滅的につまらないのだからどうしようもない。イベントムービーと言うより、イベント「だけの」ムービー。劇映画としてはクズ同然だ。
なお本作は、本来ならもっと後年のマイケルの姿まで描く予定で、実際に撮影様までされていたようだ。最後に続編を匂わせるテロップも出るし、製作が決まったというニュースも聞く。ただし今日の新聞を見たら、プロデューサーは「ぜひ作りたい」という言い方をしていたので、実現するかどうかはまだ分からない。
つまり本作に感じたさまざまな不満が、続編で解消される可能性はある。だが仮にそうなったとしても、本作(Part 1)が1本の劇映画(ドラマ)としてガラクタであるという事実に変わりはない。その不満が解消されるとしたら、本作と続編をミックスして再構成した1本ができる場合のみだろう。
ちなみに新聞のインタビューでプロデューサーは「本来入れるはずだったシーンがカットされたおかげで、華やかなシーンだけでなくしっとりしたシーンを入れる余裕ができた」とも語っていた。なるほど、本来入れる予定ではなかったシーンで穴埋めしたとプロデューサー自身が告白しているのだから、そりゃ退屈になるのも当然だろう。