大屋先生もご指摘の点ですが、「特定の政策選好にかかかわらず手続き的正義が大事だよね」という方が「リベラリズム」っぽいわけですが、現状、「手続き的正義?なにそれ?要らないよね」のスタンスで特定の政策を推進しようとする方が「リベラル」を名乗りがちであるという問題があるわけですね。
「リベラルとは何ぞや」議論が白熱すると、しばしば、法哲学者の井上達夫氏の「リベラリズム」に言及する人が現われ、それが議論がさらに錯綜させることになるので、少し整理したいと思います。
冷戦終焉後の日本においてガラパゴス的進化をとげた「リベラル」という言葉の意味内容は、端的に「護憲 アイデンティティ政治」です。1990年代中旬の政界再編期に「護憲」として、2017年の旧立憲民主党結成時に「アイデンティティ政治」としての意味を帯びた。
そのような意味での「リベラル」と、法哲学者の井上達夫さんが唱えた「リベラリズム」は、率直にいって、ほとんど関係ありません。
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「現代思想」7月号の特集「『リベラル』のゆくえ」のために、『共生の作法』(1986年)はじめ井上先生の著作を読み返し、あらためてそのポレミカルな論理展開を味わったが、井上さんのいう「リベラリズム」は、価値対立に起因する政治体制の正統性危機に際する公正な共生の枠組、すなわち「正義原理」です。
このような井上氏の「リベラリズム」は、「自由に対する正義の優位」を唱える点で、もはや語義的には「正義主義」であり「リベラリズム」でさえないのではないか(井上氏自身も liberalism を「自由主義」と訳すのは語訳で「正義主義」と訳すべきと認めている)という点もある。
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しかしそれ以上に、井上さんが展開したリベラリズム哲学は、それ自体として魅力的議論ではあるが、1993年以降のメディアや現実政治において「護憲 アイデンティティ政治」として流通・定着してきた「リベラル」とは良くも悪くも無関係の文脈で展開されたものです。
思想学術におけるその後の「ロールズ産業」の勃興も、日本における「リベラル」の盛衰とは無関係に終始したといってよい。ここにあって、「リベラル/リベラリズム」をめぐる現実政治と思想学術の乖離は、日本における一つの特徴として残ったままです。