私はそう思わない。もしこの理屈が成り立つなら、万の知識を持つ者は千の知識しか身につかない人しか育てられない。千の知識しかない人は、次に百の知識の人しか育てられない。その人は十の人しか、さらには一の人しか育てられず、知は世代を経るごとに劣化することになる。それは指導者として失格だと思う。自分を超える弟子を育てられない指導者は、相当に腕の悪い指導者と言わざるを得ない。そんな人は指導者の立場からいなくなったほうがいいと思う。
指導者として理想的なのは、自分よりも優れた人物を育てること。スポーツの世界ではこうした指導者がゴロゴロしている。ご本人はオリンピックにも出られなかったのに、弟子はゴロゴロ、とか。こういうのが、本当の意味で優れた指導者なのだと思う。自分以下の弟子しか育てられない人は、自分が弟子よりも優れていないと気がすまない、自分中心、自分勝手、自分大事な人間の可能性がある。やはりこうした人物は指導者の立場から離れたほうがよいだろう。
ある旧帝大生は、両親が中卒だった。漁村で生まれ、漁業に従事しており、本を読む習慣もなかった。しかし、子どもが欲しがれば本を買い与えたし、図書館にも連れて行った。子どもが何か知識を身につけ、それを披露すると、両親はそれに驚き、喜んだ。その子は親が驚いてくれるからますます励んで知識を身につけ、ついに旧帝大に。知識の面では、そのご両親は子どもの足元にも及ばない。けれど、その旧帝大生は両親を深く尊敬し、感謝していた。この両親の元でなければ学力も上がらなかっただろう、とも。
「トンビがタカを生む」「青は藍より出でて藍より青し(出藍)」という言葉がある。指導者は、自分より優れた人物を育ててこそ初めて指導者と呼ぶにふさわしいと思う。弟子が自分を超えられないようなら、指導者に向いてない。私なんかはそう思う。
古代ギリシャでは、プロタゴラスが圧倒的な天才として知られていた。弟子もたくさんいた。しかしプロタゴラスからは、さして大した弟子は育っていない。
他方、ソクラテスの元にはプロタゴラスほどの人数は集まっていたわけでもなかったのに、プラトンをはじめとして、歴史を変えてしまった人物が育っている。
松下村塾の吉田松陰の元でも、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、山縣有朋など、のちの日本の形を決める重要人物がわんさか現れた。
ソクラテスと吉田松陰に共通する特徴、それは「自分にない知を弟子から湧き出させる力」を持っていた点。
ソクラテスはその技を「産婆術(助産術)」と呼んでいた。自分にも弟子にも知識がなくても、問いかけることで思考を揺さぶり、新たな知識を生み出す手法。
プラトンの著作「メノン」には、ソクラテスが友人の召使いを呼び、互いに数学の知識がないにも関わらず、図形を目の前にしてソクラテスが問いかけ続けることにより、新たな図形の定理を発見してしまうシーンが紹介されている。
ソクラテスは教えていない。むしろ自分は無知だから、と、若者たちに問いかけ、教えてもらおうとした。若者は問いになんとか答えようと、必死に考える。その答えにソクラテスが面白がり、別の情報を加えて新たに問いかける。こうした問いを重ねると、ソクラテスも若者も思いもしなかった知の地平にたどり着くことができた。
松下村塾もそうで、実は吉田松陰が教えるのではなく、弟子たちから教えてもらうスタイルをとっていた。松陰が問い、弟子が答える。このため、若者たちは著しく思考が刺激され、新たな知を開くことができた。
私は、この「産婆術」こそ、指導者が身につけるべきテクニックだと考えている。恐らく、上で紹介した旧帝大生の両親は、知らず知らずのうちにこの「産婆術」をしていたのだと思う。子どもに問い、それに子どもが答える。親はその答えに驚き喜び、その反応を見て子どもはますます親を驚かせてやろうと、知識を身に着けようとする。親がたとえ学問的には無知であっても、指導者としては理想的に思う。
指導者に必要なのは、私の考えでは知識の量ではない。若者が指導者である自分を超えるようにすること。そのために問いかけること。そしてその答えに驚き、面白がること。そうした「産婆術」こそか必要なのだと思う。
弟子より知識を持とうとするのは、自分より劣る劣化コピーを作ろうとしているだけのように私には見える。それは、弟子を育てることよりも自分が「すごいね」と他人から言ってほしい、ほめてほしいという幼児性を、指導者が捨てきれていない可能性がある。
指導者は、若者の成長に驚き、喜ぶ側に回る必要がある。自分をほめてほしい、という欲があるうちは指導者にならないほうがよいと思う。
目安として
「小学生に教えるなら中学生以上の学力が要る。
中学生に教えるなら高校生以上の学力が要る。
高校生に教えるなら大学生以上の学力が要る。
大学生に教えるなら院生以上の学力が要る」
と、学生時代、先生がおっしゃっていた。同時に、
「ちゃんと指導するなら、教え子を圧倒する学力が必要だ」
とも。
「10知っていて10教えるようでは、指導者失格であり、100知っていて10教える、1000知っていて10教える、という領域に達しなければならない」
と。
今も心に刻んでる。