ディズニーシーで外国人と見られる客が、園内に飲食物を持ち込みして食べている画像が拡散された。これに対して運営会社は「ケースバイケース」として容認する姿勢を示唆した。これなぁ、宗教を免罪符にして「刃物・麻薬・一夫多妻」等で大問題に発展したんじゃ。
例えばな、シーク教というものがある。
この宗教は、信者が「常に」宗教ナイフを携行することが信仰だとしている。
もちろん、物理的に本物のナイフであり、刺したら普通に人が死ぬものじゃな。
これを「信仰の尊重」として、裁判所、航空機、学校への持ち込みが認められるのか、実は争われた。
地域・国によっては「学校へのナイフ持ち込みは可能」とか「航空機への持ち込みが可能」とか判断が分かれた。
でもな、あの2001年9月11日のテロが、手のひらサイズの刃物の機内持ち込みによって達成されたことを考えると、
「受忍すべき範囲」とか「合理的な配慮」という寛容な概念では、ワシは正当化できないと思っておる。
つまりな、ある属性の人々に対して、自国民ら対して一般に禁止されていることを許すと、
「不公平」とかいう以前に、「じゃあどこまで認めるのか」という話になってくるわけだ。
話をディズニーに戻すと、「液体持ち込み」が禁止された背景には、
ガソリンとか強酸とか、人に危害を加えるものを満ち込める突破口になってしまう、という事情があるからだよな。
でも、宗教を理由にしてそれが認められると、じゃあ、その信仰を持つ人々は絶対に、危険な液体を持ち込まないと誰が保証するのか、という問題と、
そもそも「どこまで宗教を大義名分にして既存のルールの例外を認めるのか」という問題が起きてくる。
前述したシーク教徒の「ナイフ携帯」は、問題のほんの一部で、実は世の中にはこうした問題が沢山ある。
例えば、
Employment Division, Department of Human Resources of Oregon v. Smith, 494 U.S. 872 (1990)
という事件があった。これは、北米ネイティブの人が「部族の歴史的慣行・儀式」として麻薬を使用・所持したことについて、それを規制できるかが争われた。
結論として米最高裁は、
「これを許せば、宗教的信念として公言された教義が国家の法律よりも優位とされ、事実上、すべての市民が自分自身を法律にすることを許すことになる」
として、規制したわけだ。
国家の法律と宗教の教義が対立した事例は、宗教心による徴兵拒否などがあり、実際にそれは認められたんじゃが、
じゃあ、「宗教による徴税拒否」は認められるのか、とかそいう話になってくる。
わかる?
「信仰により税金を払ってはいけないことになっています」とか言われたら、どうすんの。
実際、アメリカではアーミッシュが「源泉徴収は宗教上の信仰に反する」として訴訟になったが、
徴兵は「宗教的忌避」を認めても、徴税拒否はダメと軒並み否定。
United States v. Lee、455 US 252 (1982)
「信仰」というのは尊重されるが、それによって国家の基幹を崩壊される蓋然性(可能性)があるときは、これを絶対に認めないという精神が大切なんじゃな。
「信仰とは内心であり、外部的行為を認めてならない」ということが重要なんじゃ。
最近の日本へのイスラム教徒外国人労働者で、これからおそらく問題となることが確実視されるのが、
「一夫多妻制と幼児結婚」だと思うぞ。
4人の妻に全員、社会保障を要求してきたら?
日本人だと、「重婚的内縁」として、多妻をやるのは自由だが社会保障の対象にはならない。
また、結婚は、というか性交同意年齢が15才以上となっており、
日本人だとそれ未満は「法定強姦(強制性交)」となるが、信仰で15才未満でもいいとか言い張ることが当然に予想される。
そのとき、ちゃんと日本人は反論できるのか。
若い人はみんな知らないと思うが、日本は「宗教」を大義名分にして、サリンとかマスタードガスとかの毒ガス製造がバレたのに、
全く無関係の人を犯人扱いして、「信仰を守れ」と左派系文化人がテレビで大合唱した「松本サリン事件」というものがあった。
で、次の本格的なテロ行為である「地下鉄サリン事件」に発展したわけだが、この事件の背景には「国家は宗教を弾圧するな」という「例外の理屈」があった。
そう。日本人は経験しているわけじゃ。
信仰を理由にした「例外」を認めていると、それがどんどん拡大されていき、しまいにはとんでもないことになったことを。
だから、どんな些細なことも、それが「一般日本人」に禁止されていることは、宗教を理由にして例外を設けてはならない、とワシは考えている。
一つを、どんな些細な事を認めても、それは必ず「拡大解釈」されるからだな。
そして、拡大された「例外」は、国家の秩序と主権をむしばむ。内部崩壊じゃな。
宗教とは、あくまで国家の下、法律の下にあることを決して忘れてはならない。
宗教上、輸血禁止だから、まだ判断能力が無い児童に対する医療行為でも輸血禁止だ、として「死」を見過ごすことが、果たして「文明国」なのだろうか?
輸血禁止が面倒だから特定の宗教の連中は受診拒否してやる、というのは宗教差別だと思うが、
同時に「信仰のため子どもを見殺しにしてはならない」という国家の理性を失ってはならん。
これは、割礼(女児のクリトリス切除手術や男児の包茎切除)などが、「児童虐待にあたらない」という現在の児童相談所の運用は、絶対に間違っていると思うぞ。
「誰がやったか」ではない。「何をしたか」で国家は判断すべきだ。
ローマ共和制の末期に書かれたキケロの『法律について』(De Legibus)にはな、こんなことが書かれている。
「神々への礼拝は、公の宗教と私の宗教を区別しなければならない。公の宗教とは、国家が制定した儀式・神殿・神官職によって維持されるものだ」
(中略)
「神の法は人の法に先立ち、あらゆる制定法の源泉だからである」
つまりな、国家である以上、そこには「神」が「人」よりも先にある。これは、日本とて例外ではない。
明治維新は、明治天皇の紫宸殿における五箇条の御誓文に始まり、それは「皇祖皇霊」に対する民族的契約として、「日本国の繁栄」を誓約したものだ。
こうして法令が整備され、大日本帝国憲法が制定され、その大日本帝国憲法を国会で改正して現在の日本国憲法が出来た。
議会で法を定め、天皇が公布することで効力を持つ。人の精神と、「神格化された存在による認証」を経て、統治行為が行われる。
法の源泉は議会にあり、議会の源泉は憲法にあり、憲法の源泉(なぜそもそも憲法が最高法規たる効力をもつか?)には、神からの承認があるからだ。
神からの承認が無い憲法は、旧ソ連など共産圏をみていればわかるが、いともたやすく崩壊する。これが「人の定めた法」の限界なわけだ。
つまり、その国家の神よりも、移民に伴って来た宗教を国家の神よりも優先すれば、それは「内戦」という未来への道となる。
なので、古代から国家は「その国家が神として歴史的に定めた神聖な存在」を統治の終局的な源泉としてきたわけじゃ。
現在も、アメリカ大統領が聖書に手を置いて宣誓する理由だ。これは「政教分離」とは無関係じゃぞ。
政教分離とは「特定の宗派に国家が肩入れ」することを禁じたもので「国家と宗教を完全分離」という趣旨ではないからな。それは共産主義の理屈じゃ。
だから、天皇陛下や総理大臣の伊勢神宮御親拝や参拝を問題視することはできない。
こうした背景からも、宗教は尊重されるべきだが、一般人に禁止されていることに例外を認める「気運」や「風潮」を決してつくってはならない。
それは、極めて甚大な「侵害」を伴うものとなって、返ってくるぞ!
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