3年前、母が台所で倒れた。
くも膜下出血。
一命はとりとめた。
でも左半身に麻痺が残った。
右手しかまともに動かない。
母は自分で背中を洗えなくなった。
最初は、父が手伝っていた。
でも父はその年の春に単身赴任になった。
家には母と弟だけが残った。
弟は当時高校1年。
私に一度だけ電話してきた。
「姉ちゃん、背中ってどうやって洗うの」
笑ってしまった。
「そんなの自分で洗えるでしょ」
弟は、黙ってから言った。
「俺のじゃない」
意味がすぐにはわからなかった。
母は人に体を見られたくなかった。
ヘルパーも、頑なに断っていた。
「息子になら、いいの」
そう言ったらしい。
弟は、それから毎晩母の背中を流した。
私が「気持ち悪い」と思っていた3年間。
弟は母の右手では届かない場所を、洗い続けていた。
正月、私はもう一度、風呂場を覗いた。
母の背中に、石鹸を滑らせる弟がいた。
母は、目を閉じて言った。
「気持ちいいわぁ」
弟は母の背中を流していたんじゃない。
母が、一番嫌がっていた「誰かの世話になる」を
世話だと思わせないために、毎晩風呂に入っていた。
私が見ていたのは弟が母の背中を流す姿じゃなかった。