参政党支持者も、れいわの支持者も、そして共産党の支持者も、生活者としての体感は共通なのです。
その苦しさが、グローバル化した資本主義経済にあるという認識も、たぶん共有しているのです。
ところが、れいわの人や参政党の人は、それが資本主義批判に向くことがないのです。
資本主義批判を可能にするためには、資本主義を外部から捉える科学的社会思想が必要ですが、それは「共産主義」として西側社会の大衆から遠ざけられてきたからです。
山本太郎がインチキなMMTみたいなのに引っ掛かったのも、端的に言えば、資本主義システムの理解が中途半端だったせいです。
また、参政党の人は、社会システムの問題を「愛国心」とか「外国人差別」のような、感情や情緒で解決しようとしていますが、それが最悪の選択肢であることは歴史が物語るとおりです。
畢竟、大衆の教育水準が問題なのです。
(・ω・)
この視点は重要だ。
参政党支持者の中に、れいわや共産の支持者に近いようなことを言う人がいる。
反自民、 反既得権益、反グローバリズム。 減税、生活苦への怒り。
ここだけを見ると、れいわ・共産と参政党は重なる部分がある。
というより、入口だけ見ればかなり似ている。
だから、政治に強い軸を持っていない人は、参政党にも共感してしまう。
しかし、本当に見るべきは入口ではない。
出口だ。
れいわや共産の出口は、護憲、反戦、福祉、弱者救済へ向かう。
一方で、参政党の出口はどこへ向かうのか。
改憲、有事国家化、緊急事態条項、 国家主権、 国民統合、国民動員。
ここへ誘導されるなら、入口で拾われた庶民の怒りは、最後には体制側の燃料に変えられてしまう。
参政党の怖さは、まさにここにある。
左派や庶民派が本来拾うべき怒りを、右派国家主義の出口へ運ぶ。
入口では、庶民の味方に見える。
しかし出口では、強い国家を作るための政治へ回収される。
もちろん、本当の意味で反戦・護憲を軸にしている人は、参政党に流れるとは考えにくい。
しかし、出口まで見えていない不満層は参政党に流れてしまう。
参政党は、その出口を隠すのがうまい。
出口を「日本人を守る」「国を取り戻す」という美しい言葉に変換するのがうまい。
でも、そこで見誤ってはいけない。
入口は反自民でも、出口が有事国家化なら意味がない。
入口は庶民の怒りでも、出口が国民動員なら危険だ。
見るべきは入口ではない。
出口だ。